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京都・伏見桃山の地は、万葉集や日本書紀に記されたほどの古い歴史を誇り、万葉集では「巨椋の入江と響むなり 射目人の伏見が田居に 雁渡るらし」と詠まれ、伏見の語源ともつながります。
かつては巨椋池を背景にした風光明媚な伏見桃山・中書島は平安時代には都人の遊興地として愛され、また、伏見城が豊臣秀吉によって築かれました。秀吉の没後、天下を掌握した徳川家康が、商業港湾都市としての整備を行い、淀川三十石船をはじめ、大小の船が行き交う港町として繁栄しました。
伏見は「伏水」と記されたほど、豊かな伏流水に恵まれた土地で、伝統の酒造りもこの頃から本格的になりました。今もなお、まちには酒蔵が立ち並び、全国有数の酒どころとしての風情を感じさせてくれます。
歴史ある伏見のまちは21世紀を迎えた今、観光都市・京都の南の玄関口として、新しい魅力を創造しつづけています。 |
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京都−大阪の中継地として、人や物資で賑わった伏見は、角倉了以の高瀬川運河の開削によりさらに発展。大阪から三十石船に乗り伏見に着いた旅人は、京町通(伏見街道)を通り京都の中心部へ、大和街道を通って奈良へ、また参勤交代の西国大名は、桃山丘陵を越え、山科を経て東海道をめざしました。このように伏見は水陸交通の要衝として繁栄しました。当時の街の広さは、東西1キロ、南北4.6キロで、南北に細長く、人口2万4千人の大都市でした。 |
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豊臣秀吉の城下町として開け、秀吉のあとに天下を治めた徳川家康は、京町通から一筋西の両替町通に銀座を置き、大黒常是を呼び寄せ銀貨をつくらせました。銀座の町名は現在も残り、大手筋との交差点に銀座跡の石碑が立っています。東京の銀座は有名ですが、はじまりにおいては伏見の方が古く、日本で最初の銀座が置かれました。 |
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港の中心は今の京橋付近、周辺には大名が宿泊した本陣が4軒、脇本陣が2軒、旅籠は大小あわせて39軒あったといわれています。幕末、坂本龍馬が幕府の捕手に襲撃された寺田屋事件の舞台は今も面影を残し、京橋北詰には幕府のお触れ書きなどをかかげる高札場、南詰には幕府公認の過書船番所・船高札場などがありました。 |
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水運で賑わった伏見も、明治維新の「鳥羽伏見の戦い」により町の大半が焼失。江戸時代には「伏水(ふしみ)」と記され、豊かな地下水にも恵まれた伏見は、酒どころとして、明治から大正時代の酒蔵が立ち並び風格のあるたたずまいを見せています。かつての伏見港周辺となる宇治川派流域および濠川沿いは、水辺の風景が美しい散策路となり、平成10年より十石舟が復活運航し、水運のまち伏見の賑わいを感じることができます。 |

| 良質で豊富な地下水に恵まれた伏見は日本を代表する銘醸地として、その名を知られてきました。かつては「伏水(ふしみ)」とも書かれたほど質の高い伏流水に恵まれてきた伏見の酒造りの歴史をひもといていきます。 |
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伏見の酒造りは古くから行われてきました。脈々と受け継がれてきた酒造りの伝統が花開いたのは安土・桃山時代のこと。
太閤秀吉の伏見城築城とともに城下町として大きく栄えた伏見は、酒の需要が高まる中で徐々に全国にその名を知られるようになりました。江戸時代には宿場町・港町として水陸交通の要衝となりさらに発展、酒造家も急増し酒どころの基盤がつくられていきました。 |
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伏見の酒造りにつかわれる地下水は、カリウム・カルシウムなどをバランスよく含んだ中硬水で酒造りにたいへん適しています。この地下水によって醸される伏見酒はきめ細かく、まろやかな風味が特徴となっています。 |
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多くの杜氏によって、伏見酒は発展していきました。
代々受け継がれてきた酒造りはこれら杜氏の人びとの思いによって伝えられたもの。
その勘と技は今現在も確実に伏見酒の味に反映されています。 |
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長い歴史を誇り、昔と変わらぬ味を伝える伏見酒。
太古の昔から試行錯誤をくり返してきた人びとの、技と智恵がその深い味わいに息づいています。
この地に根をおろした酒造家がそれぞれに個性を発揮することによって、伏見酒は今でも多くの人びとに愛されています。 |
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